厭世のコラージュ
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死刑の判断基準
 法律、別けても刑法は本来、極めて冷徹である。運用者はそこに血を通わせるが、かといって必ずしも被害者の感情に与(くみ)するものではない。被害者感情とやらにいちいち配慮していたのでは法治国家とは云えぬ。

 東京地裁で出された江東区女性殺害事件の無期懲役判決には、岡田茂よろしく「なぜだ!」の声は多いよう。

 『毎日新聞』伊藤一郎記者は「市民が裁判員として死刑求刑に向き合った時、抽象的な項目を掲げるに過ぎない『永山基準』で判断できるかは疑問」として「明快な死刑判断基準を」と云う(19日朝刊)。

 なるほど「明快な死刑判断基準」が設けられるならば裁判員=一般市民は深く考えたり思い悩んだりすることもないだろう。たった3日で判決も出せるというもの。しかし明快な基準があるならば、そもそも裁判員制度は必要あるまい。ややもすれば裁判自体が不要となりはしまいか。

 「明快な死刑判断基準」を設けたとしよう。昨今の厳罰化を受け、殺人事件は殺害人数を問わず被告を死刑とする。これならば分かりやすい。

 ところがどうだろう、誘拐殺人や強姦殺人ならば迷うことなく死刑も選べようが、増加の一途を辿る介護疲れによる家族殺害ならばどうするのか。

 死刑制度に犯罪抑止力(というまぼろし)を期待する以上は介護殺人も死刑とすべきだが、お上の慈悲によって懲役3年、執行猶予3年という判決も実際にある。

 それとも強姦殺人なら死刑、介護殺人なら執行猶予などと“被害者の命には差があるのデス”と基準に盛り込むか。してその合理的な説明は可能か。

 そうした線引きがあるならば、誰を殺せば死刑で、誰を殺せば死刑ではないのか。あるいは遺族が涙すれば死刑なのか。涙してくれる家族のいない野宿者が殺された事件はどうするのか。

 最後に余談。裁判員が守秘義務の重圧に押しつぶされて発狂したら、死刑判決を悔やんで自殺したら、ハテ誰がどのように、その“被害者感情のオトシマエ”をつけてくれるのかしら。これも流行りの「自己責任」ですかね。
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