厭世のコラージュ
人間にとって最も善いことは生まれてこないこと。次に善いことは早く死ぬこと。
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まおみ
 さて、そんな優木まおみは箸をキチンと持てないことが判明。お父さんがっかりだよ。

 まァ乳はあっても房がない(いやまア無いとは云わないけど「足りない」)からナニがギンギンにアレするほどには好きでなかったが。

 やはり大向こうからイヨッ待ってました! たっぷりと!(この「たっぷり」が大事)とかけ声の飛ぶくらいが望ましい。

 では箸をキチンと持てないボイン、箸をキチンと持てるコイン(もしくはナイン)。どちらかと問われたら迷うところだが、ご飯をいただくときはコイン、ナニをいただくときはボインを選びたい。

 カラダはよくてもワビサビ礼儀作法を知らねえオンナは基本的にご免被りたいのが本当のところ。風呂で背中を流してくれるっつーならそれを遠慮はしないが。

 もっとも近寄りたくないのは、大口開けて手をパンパン叩きながら笑うオンナ。そう、久本のような。それがオトコでも手をパンパン叩きながら笑う(お笑い芸人に多い)やつあ嫌いだ。

 ということで、いい歳ぶっこいて箸がキチンと持てない日本人は腹を切って死ぬべきである。安倍ちゃん、聞いてる?
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死刑の判断基準
 法律、別けても刑法は本来、極めて冷徹である。運用者はそこに血を通わせるが、かといって必ずしも被害者の感情に与(くみ)するものではない。被害者感情とやらにいちいち配慮していたのでは法治国家とは云えぬ。

 東京地裁で出された江東区女性殺害事件の無期懲役判決には、岡田茂よろしく「なぜだ!」の声は多いよう。

 『毎日新聞』伊藤一郎記者は「市民が裁判員として死刑求刑に向き合った時、抽象的な項目を掲げるに過ぎない『永山基準』で判断できるかは疑問」として「明快な死刑判断基準を」と云う(19日朝刊)。

 なるほど「明快な死刑判断基準」が設けられるならば裁判員=一般市民は深く考えたり思い悩んだりすることもないだろう。たった3日で判決も出せるというもの。しかし明快な基準があるならば、そもそも裁判員制度は必要あるまい。ややもすれば裁判自体が不要となりはしまいか。

 「明快な死刑判断基準」を設けたとしよう。昨今の厳罰化を受け、殺人事件は殺害人数を問わず被告を死刑とする。これならば分かりやすい。

 ところがどうだろう、誘拐殺人や強姦殺人ならば迷うことなく死刑も選べようが、増加の一途を辿る介護疲れによる家族殺害ならばどうするのか。

 死刑制度に犯罪抑止力(というまぼろし)を期待する以上は介護殺人も死刑とすべきだが、お上の慈悲によって懲役3年、執行猶予3年という判決も実際にある。

 それとも強姦殺人なら死刑、介護殺人なら執行猶予などと“被害者の命には差があるのデス”と基準に盛り込むか。してその合理的な説明は可能か。

 そうした線引きがあるならば、誰を殺せば死刑で、誰を殺せば死刑ではないのか。あるいは遺族が涙すれば死刑なのか。涙してくれる家族のいない野宿者が殺された事件はどうするのか。

 最後に余談。裁判員が守秘義務の重圧に押しつぶされて発狂したら、死刑判決を悔やんで自殺したら、ハテ誰がどのように、その“被害者感情のオトシマエ”をつけてくれるのかしら。これも流行りの「自己責任」ですかね。
死刑から始めよう
 日本人の死刑好きは上っ面だけであることは裁判員制度の世論調査──死刑にしろと騒ぐけれども自分が被告に「お前さんは死刑ね」とは云いたくない──で証明されている。

 死刑好きの善良なる市民はマスゴミが大々的に報道した事件にしか声を上げはしないのだ。被害者がオンナ子どもであるほど声は大きくなる。遺族が死刑にしろと騒げば尚よし。

 ところが、根性のひん曲がった小憎どもに叩き殺された野宿者が被害者では誰も関心すら持たない。

 介護の疲れから逃れたいというまったくもって手前勝手な殺人には容疑者へ同情すら集まる不思議。やっぱりね、人の命には差があるんですよ。

 それを“是正”する方法がある。

 日本人の8割が「死刑大好き」もしくは「結構好き」あるいは「嫌いじゃない」のだからして、いっそあらゆる犯罪の刑罰を死刑から始めるのだ。

 つまり、殺人はもとより強姦、放火、詐偽、万引き、痴漢から立ちションに至るまでありとあらゆる犯罪行為はコレすべて死刑。いやはや、これほど「公平」な方法が他にあろうか。

 スピード違反も死刑である。タバコのポイ捨てだって死刑である。恨むならスピード違反をした、タバコのポイ捨てをした自分を恨みなさい。自分の罪を憎んでひとを憎まず。

 裁判では被告人、弁護人が酌量の余地を立証することによって死刑を懲役刑、罰金刑へとすればよい。量刑減算方式である。

 ソレでは刑務所が足りなくなる? がんがん建てたらよろしい。刑務官も足りない? どしどし募集したらよろしい。刑務所周辺地域も含めて大変な景気対策、雇用対策にもなる。

 まずは死刑、すべてはそこから始めよう。
うんこ返し
美人と噂のおねいちゃんにうんこを送りつけてやったら「あたしゃ2 Girls 1 Cupか?」とCDをくれたぜ。何でも贈ってみるもんだ。超多謝。
うんこ返し

しかし、ちっとも売れてないのにやたらとベスト盤が発売されるRC、清志郎ってのはどんだけ子どもダマしのモンキービジネスなんだと。

生放送でおまんこ野郎と歌ったり同じくNHKで企業名を歌っても干されないってのが答えだろか。
もっとよこせ
 定額給付金の評判が悪い。ひとり1万2千円ぽっちである。

 ひと家族が1カ月食うにはまったく足りない。麻生太郎ならバーへ2回も通えば消えてなくなる。デリヘル嬢にちんぽをくわえてもらうことすら叶わぬ。その程度の額なのだ。

 米国発の大不況は100年に1度の危機と云うが、日本政府に緊張感がまったくみられないのは私の色メガネのせいか。

 100年に1度の大不況をたった1万2千円で乗り切れるものか。それでもキューバのように教育や医療にどかどか予算を注ぎ込んでいればある程度の貧困は我慢も出来よう。

 ところが小泉改革(改革だったのかね?)以降、この国の福祉政策は見るも無惨である。国民皆保険はもはや歴史上の出来事。公民の授業で「そんな時代もありました」と習う日も近いありさま。

 「生存権」は国民の権利ではなく努力目標と化す。その中にあって、1万2千円ぽっちの「還付」では今日の餓死がひと月延びるだけに過ぎないことは誰でも分かっている、はずだが。

 年3500万円(ボーナス・文書通信交通滞在費含む)も貰っているセンセイ方(税金ですぞ)は、たかが1万2千円でも国民は「おありがとうございます」と大層感謝するものと思っているらしい。うやうやしく「給付する」というのだから、しらけ鳥も南の空へ飛んでゆこうというもの。

 定額ならぬ低額給付金とはよく云ったものだが、野党や評論家は同じ2兆円を使うなら然るべき福祉へ、自治体が自由に使えるように、などと主張する。一見もっともだが、総額2兆円といっても国家規模でみれば大した金額ではない。

 還付される側の国民も随分モノわかりがよい。訳知り顔で「2兆円は必要な福祉へ」などと云う国民はあっても、「もっとよこせ」という素直な声はどこからも聞こえて来ぬ。福祉に金を使うのは定額給付金以前の当たり前の政策。

 1万2千円? バカヤロー、もっとよこせ。
星が消えた
三連星、逝く。享年82。

合掌。
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