厭世のコラージュ
人間にとって最も善いことは生まれてこないこと。次に善いことは早く死ぬこと。
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上京物語
上京してきた。

ひとが多くてむさくるしい。

某駅構内の立ち食い蕎麦がひどくマズかった。

おわり。
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耳は馬、顔は蛙
 突如訪ねてきた宗教団体の勧誘者。こちらとしては早くお帰り願いたいからハイハイと気のない返事をするだけ。ところが勧誘者はこちらの態度が気に入らないらしく、土足で家に上がり込んだ挙げ句に居間で脱糞までする始末。そして「これは神の思し召しです。ありがたく頂戴しなさい」と理解不能意味不明な説教をコンコンと垂れる。

 信仰に関心はあっても宗教団体は嫌いである。どう説明したところで効果は逆になって表れる。しまったと気づいたときには遅い。勧誘者は連日連夜、玄関先に「神の思し召し」を垂れてゆく。さらには近所中に「あそこの家は悪魔に取り憑かれている」と触れ回る始末。こちらが音をあげ、悪うございましたと屈服するまでそれはつづく。

 それが末端の勧誘者であれば大したこともないが、オノレを預言者であるかのごとく錯覚している者が相手となれば、三十六計逃げるにしかず、命あっての物種である。くわばらくわばら。

 ところが実は、預言者には“ひととつながりたい”という本心がある。だからこそシツコク「神の思し召し」を垂れる。本当は寂しがり屋なのである。だれかに“かまって”ほしいのだ。なんと歪んだ感性。でも、なんだかカワイソウ。

 しかし、ナルホド預言者も孤独なのだナ、との同情は禁物である。一度“かまってやる”と際限がない。こちらに残るものは疲労感のみというのが相場。それもそのはず、こちらが冷静かつ誠実な対話を試みようとも、預言者は独自に開発した「ほんやくコンニャクおみそ味」常習者である。

 名こそホンヤクだが、実際には「意訳」されてしまうのだ。こちらの言葉の中から、預言者に都合のよい成句のみが抽出、理解される仕組み。こちらが何を云おうとも真意をねじ曲げて自分に都合のよいように意訳されるのだから相手をするだけ莫迦莫迦しいというもの。ヘタに反論しようものなら、「神の思し召し」を頂戴することに。

 この預言者の真価は、自分は絶対に間違っていないという裏づけなき確信によって、だれに何を云われようともヘコタレないところにある。しかし案ずるなかれ。耳は馬、顔(つら)は蛙(かわず)の預言者にも弱点はある。だれからも“かまってもらえない”と、まもなく死ぬ。
おれはちっとも悪くない
 どこが戦闘地域で、どこが非戦闘地域か。私に聞かれたって分かるわけがない! と宣った宰相がいた。きっぱり断言されては苦笑する以外にないというもの。オソレイリマシタ。

 いつの頃からか「○○力」などというものが流行ってきた。10月26日『毎日新聞』では「コミュニケーション力」なんてものを解説していたが、コミュニケーション能力じゃいけないのかしら。

 インターネット、とくにブログにおいては○○力が大いに役立つ。ひとつは鈍感力、ひとつは粘着力である。これらは特定のブロガーを非難する際にはもっとも有効な「力」だ。

 自己愛が過ぎるために本質をすっかり見誤っているにも拘わらず、本人はまったく気にもとめないブロガーがいる。鈍感力である。

 その鈍感力を懐疑的に捉えたり疑問を呈したブロガーやコメント者には、飽くことなくどこまでも執拗に容赦なく非難を加えるブロガーもいる。粘着力である。

 極めて質を悪くしているのは、あくまでも穏やかな筆致で論理的な装いをまぶしてくるところだ。

 ところが残念なことに、その主張は「おれはちっとも悪くない」という叫びでしかないのである。論理などは存在しない。しかし、これを鈍感力でもって突破するところがゲに恐ろしい。その後は粘着力をもって徹底非難を続ける鉄面皮。

 それが著名人であればまだよいだろう。ところが、鈍感力と粘着力の特殊能力を獲得した鉄面皮ブロガーが非難対象とするのは、多くが社会的影響力もない無名ブロガーへである。もはやストーカーに酷似した正真正銘の偏執狂であろう。

 こうした偏執狂は慢性的自尊心肥大症やアレルギー性自意識過敏症などと合併症を起こすのが普通である。その症状が自己存在理由の蒙昧的証明作業でしかないところが嗤える。

 無名ブロガーを徹底非難することによって自らの正義を証明しようとする偏執狂の得るものはナニか。まさか「アクセス数」なんてオチじゃあないよね。
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