厭世のコラージュ
人間にとって最も善いことは生まれてこないこと。次に善いことは早く死ぬこと。
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毎日動画
 インターネット版『毎日新聞』で、動画の共有サービスを開始したのだとか。

 動画共有サイト:毎日動画
 http://video.mainichi.co.jp/



 上の動画は塩嶺御野立記念祭
 ちなみに、昨年6月開催の祭りでは「しっかり敬意を込められるように」と1分かけたが、「長すぎて黙とうのようだ」と不評だったそうな(参考)。
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瓢箪から駒
 「だれに投票しても一緒」「だれが総理でも変わらない」と云って投票を棄権する者がいる。なんとなく分かるような気もするが、本当にそうなのか。

 それが、自民党が総理の座をたらい回ししているだけだから、とくれば説得力もある。自民党が下野したこともあったが、なるほど大して変わらなかった。「だれに投票しても一緒」は本当だったのだ。

 いやいやお待ちなさい、共産党が残っている。国会に議席を有する政党で政権与党を経験していないのは、ほぼ共産党だけ。希望はあった。

 日本は共産党政権を経験していないにもかかわらず、共産党じゃ駄目だとしたり顔の者は多い。それが、「共産党政権ではエラい目にあった。共産党政権はもう懲り懲りだ」というなら分かるのだが。

 幸いにも──もしくは哀しいかな──あるいは物好きにも共産党は、議席の過半数を獲得できるだけの候補者はいつでも用意してある。

 一度くらいは共産党に政権をまかせてよいのじゃあるまいか。そのくらいの冒険がなくてどうする。共産党が信用ならぬのではなく、国民が臆病風に吹かれているだけが本当のところ。

 天皇制反対、自衛隊反対のカンバンを降ろした共産党が単独政権をとろうとも、「その辺り」を復活させることはあるまい。今の共産党には右派が警戒するほどの迫力はないから大丈夫。

 それでも共産党を虫けらのごとく嫌う者は多いのだろう。耳障りの良いことばかり云う政策には現実性がないと見るむきもある。しかし「瓢箪から駒」のたとえもある。

 日本には、驚くべき無知の小泉純一郎を、道徳的未熟児である安倍晋三を、すべて他人事の福田康夫を総理大臣に迎えたほどの、大らかな実績がある。
愛の水中花
 それが何であれ、ひとつに執着するは多分に宗教的盲信である。

 信仰が否定されないのは無論。しかしそれが、自分の神を「さあ拝みなさい。ひざまづきなさい」と他人に説教するのはハタ迷惑というもの。

 そう云えばこの頃、ママチャリをかっ飛ばす白人さんコンビを見かけないなぁ。これは余談。

 ある日、一神教者が多神教者に「あなたの信仰はいい加減ですね。ぷっ」と突っ込んだ。多神教者は「そんなのカンケーねー」とフテ腐れるも、一神教者は後に引かない。

 そもそもが、互いに言語の違う一神教者と多神教者であれば、話しは最初から通じていない。

 ほどなく、おせっかいな通訳者がどこからともなくわらわらと集まってきた。しかも皆がみな好き勝手に通訳しだしたのだから大変。おまけに、意訳を多分に含んでとくれば、問題はこじれる。

 こうなれば一気に騒動へと発展するは必然。野次馬は「よくあるイザコザ」と右から左へ受け流す。

 古人曰く、触らぬ神に祟りなし。こんなとき魚屋食堂の幸助おじちゃんがいたらなア。

 もはや、「なんでやねん」「んなアホな」といったうなづきトリオ程度のツッコミの応酬でも、沸点はひとそれぞれであれば仕様がないと諦めるが上策。

 そこには人情家や知識人はいても「知恵者」がいなかった、という悲劇。

 向こう岸では「悪魔にひれ伏してでも」と準備に抜かりはないけれど。
反・反捕鯨だが
 日本の捕鯨に対する風当たりが強い中で、ずいぶん刺激的な YouTube

 クジラの個体数を激減させた最大の原因は、ランプに使う油(鯨油)を取るためだけに乱獲した米露にあると考えれば、どうして日本がという感情は素朴である。

 かくて捕鯨が広く認められたとしても、現代の日本ではクジラはほとんど食されていない。流通の絶対数が少ないからは理由になりそうだが、数が増えたらみんな食べるのかといえば疑問。

 私の幼い頃にはまだ、給食の献立にクジラが出てきていた。今となっては懐かしいなアと思っても、どうしても食さずにはおれぬものでもない。良くも悪くも、食生活は豊かになった。

 日本は食することだけをもって長らく捕鯨してきたのではなく、ヒゲに至るまで余さず利用してきたことはもちろん。ところが、お国がメートル法しか認めないとくれば、クジラ尺の出番もグンと少なくなる。着物を縫う家庭なんてどこにもないしね。

 要するに、今さらクジラなんてが消費者のホンネ。BSEと分かっていても牛丼の方が喜ばれているのだ。ダチョウも食用にというご時世であれば、食卓にクジラの出番はあるのかしら。

 そもそも、食糧自給率40%を下回るこの国が、40%の食品を食い残しているという現実。そしてメタボに恐れおののくという馬鹿馬鹿しさったら。

 私は反・反捕鯨の立場ではある。あるけれども、伝統文化をほそぼそと継承する意味にしか捕鯨の理由を見いだせないとくれば、声はおのずと小さくなる。オージーの白人どもめと叫んでみても、論にもならぬ反発でしかない。

 反捕鯨を非難するのであれば、「日本人よ、狂牛肉を捨てよ。クジラを食おう」というくらいでなければ。そこまで腰の座った輩って、いませんなァ。
死刑執行民営化
 米の死刑を揺るがしかねない裁判(参照)の続報。「薬物注射による死刑執行は『残酷で異常な処罰』を禁じた米憲法に違反するかどうかを審理するため7日開かれた米連邦最高裁の口頭弁論で、判事の意見は大きく割れた」(9日『毎日』)。

 裁判の行方自体も気になるところだが、「保守派のスカリア判事は‥‥」「リベラル派とされるスティーブンズ判事は‥‥」と判事を保守派、リベラル派で明確に分けているのが面白い。

 連邦最高裁判事の任命は大統領がおこなうため、時の大統領と政治的立場の近い者が任命されるは必然。しかし、保守対リベラルで政権交代を繰り返す米ならば、在任の判事すべてが保守、すべてがリベラルで占められることはほとんどない。

 世界一の民主国家を自認する所以(ゆえん)である。そもそも死刑囚が「薬物注射による死刑執行は苦痛を伴い、米憲法が禁じた『残酷で異常な処罰』に当たる」と裁判に訴えることも、いかにも米らしい。

 閑話休題。

 超個人的な「野次馬感情」を被害者感情・遺族感情にすり換えて、理屈もヘッタクレもなく極刑を望む犯罪的無知の善良なる市民が多数世論を形成する現代の日本社会で類似の裁判があったらどうだろうか。

 もしも死刑囚が「絞首は『公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる』と謳われた憲法第36条に違反している」と訴えたら。

 結論は火を見るより。「ひと殺しが生意気いうな!」である。「のび太のくせに!」である。ここには、私憤を公憤と偽る歪んだ感情論しか存在しないけれど。

 あるいは死刑執行を民間業者に依託する方法も。さすれば「公務員による‥‥刑罰」ではなくなる。憲法の拡大解釈は政府の十八番(おはこ)。
もっと死刑を
 本ブログ旧ブログ旧々ブログで、死刑制度について幾度も書いてきた。筋金入りの死刑制度反対者であったから、無論その立場からの記事を書いた。「あった」と書いたのは、今では死刑制度に賛成しているからである(5日記事参照)。

 日本の親方アメリカでは、「薬物注射による死刑執行は苦痛を伴い、米憲法が禁じた『残酷で異常な処罰』に当たる」(8日『毎日』)などという、なかなかに興味深い裁判がおこなわれているよう。

 実に馬鹿げている。「国家による報復殺人の代理」たる死刑そのものが残酷であるのだから、執行手段がどうあろうと問題ではない。

 私のように高度な知的水準にある死刑制度賛成論者はともかく、犯罪的無知の善良なる市民らマヌケども一般の死刑制度賛成理由は、被害者感情・遺族感情をことさら強調した「野次馬感情」によるところが大きい。下らぬ理由とはいえ、それが多数世論であればムゲにすることも出来まい。

 日本では7~8割に達する死刑制度賛成の世論がある。このような現状においては、死刑制度を存置するか廃止するかの段階ではまったくない。世界的な流れだから、人権上問題があるから等は関係ない。よそはよそ、うちはうち、なのだ。

 したがって日本においての死刑制度をめぐる議論は、死刑をどこまで適用するか、そしていかにして執行するか、がもっとも望ましい。犯罪的無知の善良なる市民らマヌケどもの野次馬感情=世論にも合致する。

 野次馬感情の高まりを考慮すれば、人殺しはすべからく、お上の手をわずらわす者も死刑としたらどうか。その中には、お上に銭をたかるがごとき生活保護者すべてを当然ながら含む。自立できぬなら生きる必要なし。

 さて執行手段。やすらかに報復したのでは野次馬感情を納得させられまい。絞首刑よりももっと残酷極まりない方法がよいだろう。さらには、死刑囚一家を皆殺しにする必要もある。臭いニオイは元から絶たなきゃダメ。
死刑制度万歳
 「被害者感情」「遺族感情」という錦の御旗。犯罪的無知の善良なる市民は、これが大層お気に入りである。悪人を殺せば平和になるという歪んだ性善説。悪人は突然変異で産まれくるわけではないんですけどね。

 この国で死刑制度を積極的に存置させる理由は「被害者感情」とやらしか存在しない。そして、被害者感情に名を借りた、容疑者への執拗な私刑。容疑者を吊るし上げて平穏な社会が訪れるのか。なるほど独裁国家ならばそれも然り。

 およそ民主法治国家において、被害者感情は最大限くみ取られるものではない。被害者感情にいちいち配慮していたのでは、法の秩序は保たれぬ。作家・高村薫の言を借りれば、「個別の裁判所がその時々の世間の声に左右され、判断がまちまちになっては、裁判への信頼が失われ、法治国家ではなくなってしまう」「被害者が幼い女の子だから死刑、年寄りだから死刑回避となれば、人の命に差があることになってしまう」。

 介護に疲れたという「身勝手きわまる理由」であるにもかかわらず、高齢の親、夫、妻を手にかけた場合は情状酌量ってヘンじゃない? ここに無いものは、「市民(国民)感情」である。だれも興味がないからだれも怒らない、だから情状酌量なんですって。

 強姦されるは自己責任で、殺されるは自己責任ではない、という摩訶不思議。男は黒豹なんだから、ふふふ。野宿者が惨殺されても世論は盛り上がらないのはどうしたことか。「人の命に差がある」(高村薫)ってこと?

 日本は平和ボケだ、などど訳知り顔で耳から脳みそをたらしている手合いもいるが、いっそ立ちションも万引きも強姦もすべて死刑にしたらどうだろう。非常に緊張感ある日常となること請け合い。戦争などせずとも平和ボケから抜け出せようというもの。

 そうそう、憲法が保証する自由及び権利を保持するための「不断の努力」を怠った国民も、もちろん死刑ね。法の最上位である憲法に違反するほどの極悪はない。
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